ことばを描く
幼いころ、絵を描いたり廃材でがらくたを作るのがすきでした。
図工ではいつも自分の作品が完成するたび「100%いけてる!!」と満足していました。
センスがない、技術がない、
それでも図工や美術が好きだったのは、唯一自分の好きな色で創ることができる世界だったから。
「汚れるから」「似合わないから」と現実世界では諦めてしまう色も、この色とこの色の組み合わせは「ダサい」「派手すぎる」という配色も遠慮なく試すことができます。
ことばをかく時も、同じなんです。
文字の色を見ながら、漢字・ひらがな・カタカナや単語のバランスを組み合わせると一つの絵になります。
前置きが長くなってしまいましたが、実のところ今回は何で何のためにブログを書いているのか、というテーマでした。
文章を書くのは小さいころから大好きでしたが、ライターや作家になりたい!と考えたことは一度もありません。
というのも、わたしがすきなのは文字の連ねる「配色」とその文章ひとまとまりを全体と見たときの「作品」をつくることだったんです。
正確には作品なんていう仰々しいものではないんですが、言葉を「知性を変換した産物」ではなく「絵具」のように使っていました。
文字の色、というのはその文字を見たときに頭の中に広がる色のこと。
(“共感覚”と言えば科学的な裏付けのある胡散臭くない感覚と思ってもらえるかもしれません。例えば「コカ・コーラ」という文字を見たときには「あ、黄色だ」と脳が認識します。)
自分のありあまる思いをぎゅうぎゅうとFacebookに投稿するのでもなく、コラム的なものを書いて文章力をアップさせたいのでもなく、死ぬまでに自分のことばを描いた絵をできるだけ多く残したいという気持ちがいちばん大きいかもしれません。
それでも文字の色だけでなく、ことばの響きの滑らかさや読みやすさ、そして言葉がそれぞれ持っている元来の意味を尊ぶことも忘れてはいけない要素のひとつなんですよね。
キャンバスに絵を描くことともまた違い、あちこちから伸びた糸の束のようなルートを集約してできた作品である文章は奥が深いなあとハッとします。
「ためになった」と言われるようなことはこれからも書けないですが、心の奥で埃をかぶっていた感覚をぱっと思い出したり、心にじんわりと熱が帯びるような温かさを引き出せることばを描くぞーという志で続けていこうと思います。