子どもの不思議、大人の常識
小学2年生の頃。
漢字を習うのが楽しく、ドリルを開けば未知の文字との出会いで溢れていてぐんぐん先のページまで予習していました。
小学生の頃で一番記憶に残っている出来事は、わたしの世界の中で「えんぴつ」が「鉛筆」に変わったときのことです。
鉛の筆の書いてエンピツと読む。不思議だ。
紙は木からできている。
そうか、そしたらわたしは木に鉛を擦り付けて漢字や算数の式を頭に送り込んでいるんだ。
この感激は一生忘れないだろうとひとり喜びを噛みしめていながら、どこかソワソワした気持ちが収まりません。
こんなに大事なことに気づいたのだから、誰かに伝えなければ。
ぱっと浮かんだのは去年の担任の先生の顔。
休み時間になって、すぐさま先生のもとへ飛び出しました。
興奮冷めやらぬ状態で自分の中での今世紀最大の発見を伝えると、
先生はちょっと驚いた素振りをして、
「たしかに。不思議だねえ」と言うだけでした。
早く大人になるのが当時の夢だったわたし。
それを機に「こんなこと大人だったらびっくりしないのか」と小さな不思議との出会いに驚かないふりをするようになっていきました。
それでも最近になって、やっぱりちゃんとびっくりしておきたかったなあと思うんです。
大人にとって当たり前のことでも、誰もが知っている常識でも、出会いは人とだけではないから。
“線には直線と線分がある”
このことを習ったときは、数字と図式が転がる数学の世界にひとり立ちながら地面が引っくり返る感覚を味わいました。
小学生の頃までの直線は、きちんと端っこと端っこがきゅっと結ばれていたのに、
中学に入った途端、結び目も見えず果てしなく続く線が横たわっていたんです。
終わりがないんだ。
直線がそんなに寂しい存在なんて、知らなかった。
半直線もまた、片方が重たくて支えきれないんじゃないかと冷や冷やしました。
大人は、新しいひとやものとの出会いを用意してくれます。
だけど、出会えたことの素晴らしさの多くは省略されてしまいます。
覚えなくてはいけないことがたくさんあるからだろうし、出会いは無数にあるからかもしれません。
いつか自分の子ができたら、
わたしの出会った不思議をたくさん自慢してあげたいな、と思っています。