じゃがバターと煙草の夏
時々、不思議な夜がある。
少し空間がずれてしまったような、すべてのものがいっぺんに見えてしまいそうな夜だ。
「親にバレたらやばいんだけどさ、やめられねえんだよ」
この時期のじりじりと日差しが照り付ける日中がだいきらいだし、鬱陶しく纏わりつくような湿気だけが残る夜はもっときらいだ。
水気を吸収したべたつく空気に白い煙が目の前を泳いでいく。
「それにまあ、痩せるし」
*
この子との出会いは中学時代で、比較的温厚(だとおもう)な今のわたしとは違いすぐにカッとなってはキレるを繰り返している短気な性格だったので喧嘩ばかりしていた。
失恋を理由に眉を細くしたその子を問い詰めたとき、中学の時何年も片思いしていた男の子がいたわたしに向かって「告白したことないやつはわかんねーよ」と吐き捨てたものだ。
いい思い出、と美化するほどまでにはいかないけれど、あんなに歯に衣着せぬ言葉の言い合いをすることはもうないんだと思うと少し心の奥がきゅっとなる。
入学後最初のテストで学年上位一桁に入れなかったことに愕然とし放課後人気のない教室で泣いていたら、教室が見える渡り廊下でその子がわたしを見つけた。
「何泣いてんだよ。あたしなんて下から数えて一桁だよ」
初対面と思わせないほど遠慮なくけらけら笑われ、元気が出たころには「じゃーね」と風のように去っていった。
クラスも名前も知らないその子とは偶然にも2年で同じクラスになる。
仲良くなるのは必然的のようだったけど、一年のころに新米の担任に向かって「お前なんて教師やめちまえ!」と言ってしまうような子でとにかくわたしとはまるで正反対だった。
*
「何か食べ物買ってくるね」
高校がバラバラになっても変わらず友だちだったけれど、きっと周りから見たら奇妙な組み合わせだっただろう。
わたしの高校では髪を染めている子なんて片手で数えるほどしかいなかったけれど、その子は明るい髪色に下着が見えそうな露出度の高い服を着ていた。
じゃがバターを買いに向かいながら、その子がふらふらとどこかに行ってしまわないか目配せをする。
たしかにすごく痩せたな。
だけど。
だけど、ちゃんとしあわせなんだろうか。
わたしみたいなおせっかいな子はそばにいるんだろうか。
彼氏はちゃんとした人なんだろうか。
「お嬢ちゃん、じゃがいも一個おまけしたげる」
そう、じゃがいもを一個まけてもらった。超どうでもいいことなのに、しっかり覚えている。
「いっこ食べる?」
その子の場所まで戻ると、まだ煙草をふかしていた。
ちょっと背伸びした格好に、いつものいたずらな笑顔が浮かぶ。
よかった、何も変わってない。
バターじゃなくてマーガリンかもしれない、でもほくほくしたじゃがいもは蒸し暑い夜をより一層だらんとした気持ちにさせて、それはそれで良かった。
「あら、○○ちゃん!」
どうやらその子の友だちのお母さんのようだった。
その子は必然的にそばにいたわたしの紹介をする。
「こいつ、すげーの。昼間の一高通ってんだよ」
昼間の、というのはわたしの高校は夜間の二部もあったからだ。
その子はわたしを誰かに紹介する時、決まって自分のことを自慢するように、堂々と言う。
そのすがすがしさが気持ちよく、その子のそういう恥ずかしがらないきっぱりとした態度がとてもすきだ。
ひとしきり知り合いのひとと話し、また二人に戻ると手持無沙汰になったわたしたちは屋台の連なる道を意味もなく何往復もした。
色とりどりの浴衣をまとう人や屋台を照らす小さな豆電球の光、その光を反射する金魚すくいの水面。
小さな町にもこんなに人がいたのかと驚くほど賑わい、拾い上げきれない音で耳の中までぎゅうぎゅうだった。
だけど、わたしたちはずっと無言だった。
その子がからませてきた右腕から寂しさがしんしんと伝わってくるようで、切なくて泣きたくなった感覚は今でも鮮明に思い出せる。
あの子のことだから本当は何も思ってなかったかもしれない。
ただ、あのときはずっとこうやって一緒に遊んだりはしていられないことを悟ってしまってひどく落ち込んだ気分になった。
その後わたしはその子の知らない名前の大学に入った。
メロンパンが好きになったわたしも、たぶん知らない。
あれ以来、お祭りでじゃがバターを買うこともしていない。
一足もふたあしも早く大人になったあの子は、育児と仕事に追われながらもきっとうまくやっている。
その子を思い出したのは、きっとこの本を読み返したからだと思う。
つぐみみたいな、最高の女の子。
わたしのことを、唯一下の名前で呼び捨てして呼んでくれる子。
その子との大切なものを失いたくないから、誰にでも最初からあだ名で呼んでもらおうと伝えてしまうのかもな、なんてことも、今さら気づく。
コンゴに行く前に、連絡しよう。