東京は何も悪くない
空を仰いだら、雲が薄くて、冬の間じゅう狭いと思っていた天が、ずっと広く感じられた。
思わず口を開いたら、土のにおいがのどに飛び込んできた。
広い空、厚い背中、季節のにおいの風。これが東京に行ったら失われてしまうんだと思うと、田舎には何でもある気がした。
しょせんそんなのは気のせいで、私の欲しいものは東京にしかないって、頭ではちゃんとわかっていた 。
けれども錯覚したのだ、もう何もいらないって。これ以上の何が、世界にあるんだろうって。
『檸檬のころ』豊島ミホ著
わたしの地元の電車は夜に乗るといつもひとり宴をしているサラリーマンがちらほらいる。
車内でお酒を飲むひとがいるのは見慣れた光景だったので、東京にきてどんなに気分が良さそうな顔を赤らめたおじさんも電車では飲んだりしないことにむしろ驚いた。
予備校時代、夜の常磐線、足元に転がるビールの空き缶。
まだ何者にもなれなかった浪人生のころは、せめてそれを拾って捨てることだけが、唯一社会に役立っていることの証みたいだった。
知らないおじさんを傘の中に入れることも、ビールの空き缶やホームに落ちるゴミを拾うことも、東京に行ったらきっとしないんだろうな。
なんでか分からないけれど、そういう場所だって思ってた。
東京に住み慣れて4年、たしかにわたしは電車の空き缶を拾うこともしなくなったし、知らない人が困っていても自分から話しかけることもなくなった。
だって、いっぱいありすぎる。
人も物も、感情も、色も音も、じゃみじゃみぶつかっていく。
いつだってひとりになりたくなるし、
外にいても中にいても誰かの息づかいが聞こえる。
でも、東京のせいなんかじゃなかった。
FacebookとTwitterをやめてから、わたしは話したことのない人に話しかけられるようになった。
人見知りを少し克服して、
息が詰まることもなくなって、
たいせつな人が誰なのかが分かるようになった。
4年前、取り返しのつかないことをしてしまって駅の隅っこで泣き腫らしていたあの日、「これじゃ足りないね」と困り笑いをしながらティッシュをくれたおじさん。
あのおじさんに恩返しできるように、
わたしも誰かに手を差し伸べられるひとになりたいな。