はきものを揃える
ピアスつけてない。
こたつの電源切ったっけ、覚えてない。
思わず出そうなため息を封じ込めるように、イヤホンを慌てて耳へはめ込む。
『全部うまくやりたいんだけど、できないんだよね』
全部うまくなんてできるわけないよ、できるとしたら人間じゃなくて聖人だって、と友だちからポンポンと吹き出しがふたつ送られてくる。
「一度、胃カメラ検査をした方がいいかもしれませんね」
いつにしますか?とお医者さんは聞く。
わたしは、ついさっき撮ったCTの写真を眺めながら、朝ごはんが食べたどうかもばれてしまうなんてすごいなあと関係ないことに感心する。
*
負荷をかけないと、何かを犠牲にしないと、苦しい思いをしていないと幸せになっちゃいけないと、どこかで思っている。
「げんき?」の何気ない一言が心の中で膨れていく。
社交辞令の返事にげんきじゃないんです、なんて言うべきじゃないのに、しまりの悪い蛇口から滴る雫のように弱音がこぼれ落ちた。
もう二度と直らないと思っていた、踵のすり減ったお気に入りの靴。
どんなに一生懸命うまくやろうとしても、足りない時間。
抗ってもアレルギー反応が出てしまう2月。
つい溜めてしまう食器や洗濯物も、きちんと毎朝片づけるようになった。
時間があれば掃除器やアイロンをかけて、ごみも曜日を守って出しに行く。
当たり前のことすらうまくやれなかったころに比べたら、ちゃんと頑張れてるはずだった。
でも、メロンパン順調?って聞かれても、うまく答えられなかった。
だって、誰も教えてくれないし、自分がどこにいるか分からない。
出版社にいたとき、NPOにいたとき、やめるとき
数字が、同僚が、上司が、自分が今どこの位置にいるのか教えてくれた。
先月より既刊本の受注数が少なかったなあとか、このデザイン素敵だね、という褒め言葉とか。
去年より順調じゃだめなのかもしれないし、だめじゃないのかもしれない。
ただ分かるのは、やり続けるしかないってことだった。
*
「じゃあとりあえず薬出しますんで。効かなかったら、胃カメラ検査しましょうか」
んぐぐ。効かないでよ。もう5日目くらいだけど、胃がしくしくする。
かなしいと、意に反してこにこしてしまう自分が恨めしい。
そんなぱさぱさの心を見透かしてか、身近な人からは、やわらかい言葉が降り注ぐ。
みんな、やさしい。ほんとうに、この世に悪い人なんてあんまりいないんじゃないかと思う。
顔に出したり言葉にしたりしてなくても心配してもらえるのがうれしくて、ちょっぴり切ない。
わたしばかりが大変なんじゃない。
むしろ、今とっても楽しくてしあわせで、誰かにとっては、少なくとも4年前のわたしにとっては羨ましい場所にいる。
後輩の子たちを養えるだけの組織にする約束もした。
会社か社団法人か、かたちはまだ分からないけれど、言葉にしたことが全部実現しているわたしなら、きっとうまくやれるって、分かる。
ただ、夢を現実にする前にいちど深呼吸をしたいだけなんだと思う。
休みたいんじゃなくて、えいやっと飛び越えるためにかがむその瞬間なんだ、きっと。
*
友だちに悩みを打ち明けながら、通い慣れた街を歩く。
じゃあね、と手を振りながら足元を見つめる。
擦り減った靴は、修理に出したら新品のように綺麗になって帰ってきた。
ああ、うれしいな。
トントン、と地面に当たる踵の音が心地よくて、油断させるような春色のあったかい空気に思わずにやける。
世界が引き裂かれるような恋に落ちようと、世界を全否定したくなるような耐えられない死別と向き合おうと、きっと今のわたしのように踵を鳴らしながら歩いている気がした。
そして、きめた。
どんな日が来ても、ちゃんと靴を揃えよう、と。
朝、慌てていても、朝日に背を向けて家を出る日がないように。
夜、悲しみを引きずっていても、一呼吸して玄関に置いておけるように。
全部うまくやれるかは分からない。
順調かどうかも、結果を見ることでしか判断できない。
だけど、毎日靴は揃っている。
それだけで、いい。
それだけで、いいんだと思う。