20160926_29°C
ほとんどのよろこびも、たいていのかなしみも、
日常の顔をしてドアを開ける。
びっくりするのは、その後なのだ。
『ふたつめのボールのようなことば。』糸井重里著
う、9月終わってしまう。
友人がSNSで金木犀が咲いてると言っていて、いいなあ東京はまだだなあなんて羨ましくいいねを押しながら家に向かって歩いていると、不意にふわっと甘い香りが立ち込めた。
えっ、と驚いて視線を少し下げる。民家に金木犀の木が植わっていた。
台風の時期と重なり花が散るのがいつも早いので、哀愁を思わせる割に特別な思い出はない。
だけど、毎年この匂いを胸にいっぱい吸い込むたび、切ない気持ちになってしゅんとする。
その気持ちがとってもすきだった。
深呼吸すると、やっぱりいつかのこの時期に友だちと喧嘩したりしたかもとか、近所の住宅街であちこちが金木犀を植えていたので町中が香りのトンネルみたいだったなあとか、些細なことを思い出したりする。
今日は、小学校6年生のときに担任の先生に何かを教えてとしつこく質問したら「もう少し大きくなったらな」と言われたシーンが浮かんだ。
たしか歴史の授業だった。
何で教えてくれないんだろ、ほんとは知らないんじゃないの、と皆でヤジを飛ばしていたけれど、今ならそう返した先生の気持ちが何となく分かる。
あんなにとっても大人だと思っていたのに、いつのまにか同級生がそのとっても大人な先生の立場をしているほどの年齢になっている。
食べられなかったものがたくさん食べられるようになったし、お酒も飲めるし、寝坊したら駅まで走ればいい。
大人は大変なことばかりだと不安だったけれど、楽しいこともひとつひとつ増えていく。
それがうれしいなあって、たまには立ち止まってにこにこしないとな。