虹色の東京
実家でついてるチャンネルはアパートにいるときと同じ。
お天気カメラに回る渋谷の交差点も、予報する地域の順番も東京にいたころと何ら変わりない。
それなのに、ものすごく遠く感じた。
自転車のペダルをえいと押しやると、景色がぐんと目の端から端へと流れていき、髪の毛の束が風に揺れる。
体と服の隙間からすり抜ける空気の柔らかさ。
見飽きた広いだけの空。
蛙の合唱、山鳩の鳴き声、面白みの欠片もないと思っていた見慣れた麦色の雑草。
何でないんだろう。
あんなに狭い場所で人やモノがひしめき合っていて、何でもあると思っていた東京に、何で大好きなものが何一つないんだろう、と思った。
手に入れたいものが、本当はここにないと分かっている。
でも、東京がすべてじゃないってことも、ちゃんと確かめておきたかった。
* * *
体調が良くないからといって寝るのも飽きたし、読みたい本も読み終えると後は頭の中で遊ぶしかやることがない。
記憶の海に潜ってふと思い起こしたのは、初めてイヤホンで音楽を聴いた時と、眼鏡を買ってもらって外の景色をレンズ越しに見た時だった。
中学生になった頃、クリスマスに買ってもらったMDプレーヤー。
兄がよくイヤホンで音楽を聴いているのは見ていたけれど、話しかけても「ああ?」しか返ってこなくて、おじいちゃんみたいに耳が遠くなるのかなくらいにしか思わなかった。
ところがどっこい。
コードの先についたおたまじゃくしのような小さいスピーカーを耳にはめて再生ボタンを押すと、鳥肌が立った。
なんだこれ。まるで本人が耳元で歌ってるみたい。
退屈な6畳ほどの子供部屋が、一気にライブ会場へと変貌した、気がした。
窓から映るのは生い茂る雑木林の緑、座席は二段ベッドの下で退屈な日常の詰まった空間だったけど、耳の奥でずっと好きなアーティストの音が鳴り響いているだけで、すごく遠いところにいる気分になれた。
眼鏡を初めてかけたのは浪人時代で、当時は目が悪いとも自覚していなかった頃。
高校より遥かに広い予備校の教室で、真ん中辺りに座って黒板の文字が見えないことに気づいて、ようやく作ることにした。
外ではかけたくないなと思いつつ、作りたての嬉しさに、いつも通る駅から予備校までの道のりで立ち止まってみる。
「初めてなので、少し弱めに作りますね」とお店の人に配慮してもらったからか、店内を見渡した時は、ふーん、こんなもんか、くらいの印象だった。
まあ、眼鏡なんて皆かけてるし。
慣れない手つきでレンズに指紋をつけないようそっとケースから取り出す。
耳にきちんと引っかかるように少し下を向きながら手を添えて、ぱっと顔を上げた。
うわ。
すごい。
今まで見て景色も、レンズ越しに見える景色も、おんなじなのに、こんなに違う。
裸眼で見ていた世界はまるで海の中にいるようにふにゃふにゃしていて、眼鏡をかけるとひとたび現実感で溢れた街並みだった。
すごい、すごいすごい。
あまりにも感動して、朝早くに来ている同級生に眼鏡の凄さを訴えた。
「初めてかけるときって感動するよね」とコンタクトを常用するその子がさらっと答える姿はとてもお姉さんらしくてちょっと悔しかったのを覚えている。
そう、なんてったって、瞳に直接被せるコンタクトはもっと凄いらしい。
知らない世界がまだいっぱいあることは希望の数でもあるなあなんて思いながら、まだ怖くてコンタクトレンズをつけたことはない。
ただ、あのとき眼鏡越しに見たのはドイツのノイシュバンシュタイン城でもなく、アメリカのグランド・プラズマティック・スプリングでもなく、飾り気のない看板が立ち並ぶ松戸駅前だったのだけど、どんな絶景にも敵わない驚きと感動を与えられた景色だったことは間違いない。
*
東京には、ほしいものがなんでもあると信じていた。
画面越しに見慣れた俳優が全速力で走る表参道。
リビングの隅に収まるほどのスクランブル交差点。
自分の体の何倍も背の高い扉を構えたブティックが立ちそびえる表参道はテレビで見るより魅力的だったけれど、街中を全力疾走する人なんていないし、実際の渋谷は画面に収まりきらない人で溢れかえっている。
想像しているよりもずっと現実的で、大きくて、なんでもありすぎだった。
「そんなことも知らないの」
知らないってことを知るときがしあわせなのに、東京に慣れれば慣れるほど知らないことがすごくかっこ悪いことだと感じるようになった。
初めてのことを機械的に、ただただ心に流し込んでいく。
何でもありすぎると、あることが当たり前になってしまって、感じるよりも先に頭が大事な出会いや経験の色を無理やり奪ってしまう。
あーはいはい、これは黄色ね、オレンジね、桃色ね、と。
初めてだけど、似たようなこと知ってるよ、と既存のラベルで高揚感を埋めていく。
ほんとうは、違った。
大事なことにまで鈍くなってしまうのが怖いと感じていたことに、何てことない数年前の気づきや初めての出会いの記憶によって、ようやく思い出す。
電車の中で体がぎゅうぎゅうに押し潰されそうになっても、大切にしたいものまでいっしょくたにすることはなかったのに。
本当にみっともない年の取り方は、自分の知っている色だけで世界を見ようとすることだった。
*
自分はこの色しか持ってない、つまらない色だ、と落第点をつけるのは簡単だし、きっとそうなんだろう。
特別な人間なんて、いない。
特別なひとがいたとしても、神さまは関係なく換気扇を回す。
その代わり、世界は広い。
生まれ持っている色が一色だとしても、外に目を向けたら自分が持っていない、見たことのない色の方がずっと多い。
それでいて、単色ではなく様々な色が連続してつながっているから、虹は美しい。
ちゃんと綺麗なものを綺麗だと見ることができるように、栄養補給をたっぷりして、東京へ戻ろう。