雨に潜るくらげとシュークリーム
小さな窓に、細かい光が錯乱する。
歪んだ街に、広がるくらげの海。
渋谷の、銀座線へ乗り換える移動通路から見えるスクランブル交差点。
東京は雨の日になると、海に早変わりする。
ぱっと開くのは花じゃなくて、くらげだ。
雫をからだに伝わせて地面に落としたり、屋根の下で萎んだり。
本物のくらげは見たことがないから分からないけれど、きっとこんな感じなんだろう。
もう何年もビニール傘を差してなかった。5年ぶり、くらいか。もっと久しぶりかもしれない。
頼りない薄い膜が張った骨組みに頭をくぐらせると、いつものナイロン製の赤い水玉模様のドームとはまるで景色が違う。
雨が引っくり返って滑り落ちる一部始終が目に見える。
街の中が水浸しなのに自分だけ濡れていない。
当然なのに、全然知らない世界のようだった。
あの日、午前中はたしか晴天だった。
ちょっと出かけてくる、の一言に不機嫌さが混じりそっけなく響く。
ほんとは違うのに、と思いながら「気を付けてね」と答える母の声が聞こえた、気がする。
真っ赤なだけが取り柄で、少しメッキが剥がれかけたギアもない愛用自転車にまたがる。家のそばの雑木林から伝わる夏の声や匂いや水分を跳ね除けるように、ただひたすらペダルを漕いだ。
信号が青に変わるのを待っていたほんの数秒のうちに、空がどんより濁る。
あっという間に灰色のコンクリートの地面が真っ黒に染まり、目的地へ着くころには海から潜って出てきたかのごとくびしょびしょになっていた。
まあ、と驚く店員の女性の声に合わせて、オーナーの方と思しき男性は裏へすっ飛びまたひょこっと顔を出す。
「これ、よかったら」
タオルだった。
こんな雨の中大変だったでしょう、と。
些細な優しさに視界がぐにゃっと歪む。
涙だとばれないように雨のしずくを拭くように顔の周りを覆った。
帰り道、雨が降っていたかは覚えてない。
だけど、箱の中に詰まったシュークリームが無事だったので少し弱まっていたのかもしれない。
リビングに、弟と母がいた。
わたしの地元には、有名なケーキ屋さんがある。
ショートケーキは生クリームが甘ったるくなくさっぱりしていて、シュークリームは外側のクッキー生地がガリッとしていてクセになる。どんなに評判のある有名菓子店にもこの美味しさは敵わず、家族もみんなファンだった。
母と弟の分を残して、シュークリームをくるんだビニールテープをぺりぺりと剥がす。
「もう、大丈夫だから」
全然、大丈夫じゃなかった。ただ、甘いものを食べれば自分を甘やかした気になれると思ったからだった。
母は、うん、とか何とか言った。
友だちが亡くなったという連絡を受けた、1週間後の出来事。
もうすぐ、4年が経つ。
*
雨の毎日、梅雨が間もなく明ける。
傘を差すことが当たり前になってしまった東京ではきっと、
自分まで大地に溶け込みそうな強い雨に打たれたあの感覚は、もうきっと味わえない。
夏がきたら、シュークリームを食べよう。